2015年11月27日

士道と学問「聖教要録」

本日は、私の政治家としての原点であり、月一回の”志”への肥料を与えてあげる学びの場である今啓林綜學会へ参加してきました。
神戸の一宮神社で行っています。三ノ宮から北へ歩いて15分くらいですので興味のある方はご参加下さい。(次回は12月18日(金)18:30から会費3,000円)

今年度は、山鹿素行が江戸幕府の御用学問であった朱子学の問題点を指摘した「聖教要録」についての学びです。
実際に山鹿素行はこの聖教要録を書き記したことで赤穂の地へと流刑されたのです。
下手をすれば死罪になることも厭わない覚悟で書き記した「聖教要録」からは魂のほとばしりを感じます。
観念に偏らずに日常で役立つ実学としての学び、これが日本思想である。日本思想は現実に即した実学でなければならない。
ということがビシビシ伝わってきました。



【以下、講演メモ】
山鹿素行
基本は、儒学であるが、後々日本学を打ち立てる。
古学を訴えた思想家とされる。
古学とは原点に戻れということ。
儒学は、孔子に戻れ

朱子、儒学を体系化 → 理屈っぽくなってしまった。 実学から遠のいてしまった。
観念に偏ると実学から遠のく

朱子学を否定した古学を唱えた本
「聖教要録」

赤穂に流された。
山鹿兵学が赤穂に広まり、赤穂義士に繋がったといわれている。

本当の戦いとは人をどう育てるかにある。

本日の講義は、「中」「道」「理」

ただ単に中間をとるのが「中」ではない。
物事の本質をとらまえ捉まえることが「中」

先人が歩いた後が「道」
歴史を振り返り今に活かす。

「理」ことわり
事割り
言割り
ものごとでもことばでもある・
理を掴むことは、実学でなければならない。

「中」

偏らないで節である。
節度、頃合い、度合い

知者は過ぎて
愚者は及ばない
どちらも中庸ではない

庸、つね。平常

常にバランスがとれていること。

武道のお稽古でも力が入りすぎず、抜けきらずの程よい中庸がよい。
→ 綜學社福丸塾でも中庸を大切にしたい。

「中庸」より
喜怒哀楽の未だ発せざる之を中と謂い、発して節に中る之を和と謂う。

朱子、理氣二元論、理=性、人間の本性は理である。表に現れたら氣。中庸も中と庸と二つに分ける。かたよらないのが中、かわらないのが庸。朱子は非常に真面目。
窮理、居敬、雑念を払って正座をしてものの本質を極めていく
喜怒哀楽を発さない中を極めようとした。

山鹿素行
後段の「発して節に中る之を和と謂う」が大切である。と唱えた。
朱子は理屈っぽくて回りくどい。
いつでも実学である。
庸は平日日用のことであって、常に活かせるようにしなければならない。

日常生活目線で日常に埋没している時に、遠くを見つめてた上で今を語ることが指導者の役割である。

礼が伝わるところが文化圏。

全体が見えていないとバランスはとれない。

「道」
宇宙に遍満しているエネルギーが「ミイツ」
ミ、身、実、満、本質
チ、縦糸、継続
本質が続いていくことを「ミチ」という

畿内、天皇領

「理」
ことわり
心にこり止まったものをコトバ
ものごとも凝り止まったもの

朱子は、日常と切り離した形而上的なものとして理論立てている。

日本学は須く実学である。

観念的になったら国学(日本思想)ではない

「性」「天」を「理」と朱子が解釈したことは間違いであった。

エネルギーの届くところまでが空間、宇宙 大和言葉ではアマ
アマは宇宙そのもののこと
時空「マ」が広がること アマ

現実社会の自然の条理は、「禮」である。

現実重視の実学を訴えたのが「山鹿素行」である。
学問として観念の遊びに止まってはいけない。
現代社会では「自由」「平等」「人権」「民主」が観念の遊戯である。

中国思想は観念的になりがちである。
古事記は現実重視で貫かれている。

山鹿素行の思想が日本学へと深まっていく。

fukumarutakayuki at 00:20 Comments(0) TrackBack(0)  

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